12日、前夜シドニーからジャカルタへ7時間のフライトで到着。朝一番タンジュンプリオク港を視察。ここでは日本もJICAを通じて協力しています。ジャカルタは今後貿易でより一層伸びる可能性が大きく、港湾整備と物資の輸送道路に大きな関心が集まっています。
◆ブラモ・ニュータウン(被災者住民移住地)の視察。
いよいよ2004年12月26日に発生した北スマトラ沖地震・津波災害で、最大の津波被害のあったスマトラ島バンダアチェへ向かいました。
アチェはインドネシアの最北端に位置しているので、ジャワ島にあるジャカルタからは、メダンを経由して空路移動となります。
到着後直ぐに、ブラモ・ニュータウン(被災者住民移住地)を視察。この地震では各国合計で23万人もの人命が失われましたが、インドネシアでは死者不明者あわせて16万人と最大の被害が生じています。
プラモニュータウンを管轄する警察署長に視察団をゲートでお出迎えいただき、ニュータウンの説明を受けました。今回はジャッキーチェンも訪れ、中国等の支援により造成された団地を視察。
ニュータウンには、台湾やイスラム圏の支援で造成された団地もあり(支援団体により屋根の色や仕様が違います)が全体で2000戸ほど作られています。
居住者の大半は津波被害を受けた方ですが、貧困層も入居出来るようにしたそうです。ただ問題は働ける街からは遠い上に、交通手段が乏しく、経済的な安定が得られていないとの事でした。
日本国政府はいち早く500億円の緊急支援を決め、仮設住宅など迅速な対応をしており、アチェの方々はとてもフレンドリーでした。
津波被害以前のアチェは、反政府軍との戦闘が激く、外国人の立ち入り禁止区域となっていましたが、津波災害支援で状況は変わりました。現在はアチェ州としてアイデンティティーを受け入れる事になり、外国人の立ち入り、観光客誘致もしています。とは言うものの、まだまだ治安が良いとは言い難い面も残っています。
日本の国会議員が正式にアチェに入るのは、今回が初めてで、メダン総領事も同行され、また、インドネシアの警察も警護についていただきました。
13日、アチェ州開発企画長官から、インドネシア・アチェ・ニアス復興庁(BRR)についてブリーフを受けました。
津波被害地域は、800kmに渡る。これはジャカルタからスラバヤ(Surayaba)に匹敵する距離の被害です。
復興庁は4年と期限を区切って設置されたが、既に解散し、その時から長官はアチェ復興に関わり続けている数少ない専門家とのことでした。
現在は5000件に上る復興プログラムを49ヵ国及びNGOの支援も受けつつ実施されています。
津波災害からの復興に向け、日本も今後とも共働して行けることを望みたいと思います。
ブリーフを及び意見交換終了後、バリ島南側海でM6.8規模の地震発生のニュースが入り、一瞬緊急が入りました。大きな被害はでていないと聞き安堵しました。
◆津波博物館視察
津波で命をなくされたかたへのメモリアル、鎮魂と、実際の遺体も映る写真の展示もある災害の現実をそのままを見せる博物館ででした。
◆発電船の視察
スマトラ島で電力供給を補うために各港を移動して回る発電船が、アチェに入港して電力供給最中に津波に遭遇。そのまま民家を乗り越え、巨大な波に乗る形で3キロ以上内陸に流され、そのまま観光資源として保存が決まった船を見学。
津波のすごさと、現在は観光客目当てで小物やジュース、CD等を売る出店のを出す人の逞しさには圧倒されます。
◆ランブンコミュニティービル視察
津波発生時に避難する三階建て鉄筋コンクリートの建物三棟を日本の無償資金援助で造っています。これを参考にして、アチェ州政府も避難ビルを建築。一棟に1000人が避難出来るのですが、普段はバドミントンのコートや結婚式など地域住民が利用出来る施設となっていました。
出来ることならば、このまま住民の憩いの場としてのみ使われてほしいです。
アチェの空港でアチェのBUDI官房長官が空港貴賓室に顔を出され、ご挨拶頂きました。
16:45アチェ→メダン→ジャカルタ→成田空港と帰国の途につきました。
今回、視察団の一員として参加するなかで、復興には様々な課題があるものの、住民・地権者との話し合いによる街づくりと早期の生活再建に繋がる雇用の創出の重要性は被災地共通の課題だと感じました。
今後、日本でも復興へ向けて、縦割り行政や固定観念にとらわれることなく、地域ごとに特性を活かした街の復興を目指していかねばならないと思います。